※この話はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係がありません。
学生時代、ある飲み会で同級生のC君が「俺は犯罪者になりかけた事がある」と話しだした。大盛り上がりとは言えないまでも和やかだった飲み会の空気が変わったのを同級生一同が感じた。
C君の話はこうである。入学して間もない頃の1限の授業中、C君は急な腹痛に襲われた。冷や汗を流しながらなんとか授業終わりまで耐え切ったC君は一目散にトイレの個室に駆け込んだ。なんとか大惨事を逃れて安堵したC君は妙な違和感を覚えた。この講義棟のトイレは以前にも使用したことがあるはずだが、個室の内装が違う気がする。そういえば先程トイレに駆け込んだ時の様子も以前と違う気が、そうか小便器がなかったのか。そしてC君は、今自分がいるのが女子トイレの個室内であることに気付いた。先程までとは違う汗が流れてくるのを感じた。
その講義棟は男子トイレと女子トイレのどちらか一方のみが各階にある構造だった。男子トイレと女子トイレは各フロアの同じ位置にあり、1限の講義があった教室の階には女子トイレがあった。切羽詰まって駆け込んだので女子トイレだということに個室に入るまで気が付かなかったのだろうと、C君は分析した。極めて冷静に分析する事に努めたが、その手は震えていた。
さて、この窮地をどうやって脱するか? もし個室から出た所で女子学生に出くわしたら一巻の終わりである。大声でも出されたら現行犯である。自分にはこれからピンク色の大学生活が待っているのだ。まだ捕まりたくはない。いや、一生捕まるつもりはない。
C君はこの窮地を脱するための案を考えた。
案1:大学事務室や守衛室に電話して助けて貰う
大学の事務室や守衛室に携帯から電話して「間違えて女子トイレの個室に入って出られなくなった」と説明すれば助けて貰えるかもしれない。正直相当怪しい奴だと思われるが、こっちはまだ未成年だ。泣きながら説明すれば現行犯逮捕はないだろう、事情聴取くらいはして貰えるはずだ。入学早々事務のブラックリストに入るかも知れないが、そもそも大学にいられなくなるかも知れない事態なのだ。恥をしのんで電話するか。
そう考えたや矢先、C君は事務室や守衛室の電話番号など知らない事に気が付いた。当時C君が持っていたのはガラケーだったので、その場で番号を調べるのも難しかった。この案は却下された。
案2:警察に電話する
事務室や守衛室の電話番号は分からずとも、警察の電話番号なら分かる。じゃあ警察に電話するか? しかし警察は来てくれるのだろうか? 大学敷地内には警察は簡単に踏み込めないと聞いた事がある気がする。いたずら電話だと思われるかも知れない。信じてくれても、警察が大学敷地内に入るということでそこそこの大事になりそうな気もする。
そもそも来てくれたとして現行犯で逮捕されるだけでは? 間違えて女子トイレの個室に入ったという容疑者を信じるほど、日本の警察が性善説に基づいているとは思えない。
ではこの講義棟に爆弾を仕掛けたと警察に電話するのはどうか? おそらく警察から大学に連絡が行き、講義棟内の人は避難させられるだろうから、そのタイミングを見計らって脱出を図るのはどうだ。
…いや無理がある。まず職員や教員が避難したかを確認するためにトイレに入って来るかも知れない。その時に個室の扉が閉まっていたら無理矢理にでも連れ出されるはずだ。避難後に事情聴取されるだけだ。
万が一混乱に乗じてトイレを脱出できたとしても、日本の警察は優秀だ、私が警察に電話したことはおそらくすぐにバレる。嘘の爆弾予告の罪は、女子トイレの個室に侵入するよりずっと重いだろう。初犯でも執行猶予はつかなそうだ。
そもそも電話している時に誰かトイレ内に入って来たらアウトだ。案1の時点で気付くべきだった。電話している最中に人が来たら目撃者を消さねばならなくなる。ああ、また罪が重くなる。
警察に電話する案も却下である。
案3:友達に来てもらう
では友達にメールして来てもらうのはどうか? 男友達でもトイレ前の廊下に人がいないことを、女友達ならトイレ内に人がいないことも確認して貰える。事をだいぶ穏便に済ませられるかも知れない。誰だ、警察に自首しようとしていた奴は?
友達に連絡しようとしてC君は大事なことに気が付いた。C君は地方から上京して大学生活を始めたばかりで、学内に友達がいなかったのである。C君がこの時ほど友の大事さを実感したことはない。
入学のオリエンテーションで言葉を交わした同級生はいるが、まだ顔見知りの域を出ない。相手をよく知らずに頼むには、女子トイレからの救出は荷が重すぎる。
救出を頼んだ男子学生が、事の重大さを理解しない輩だったらどうなるか? ふざけて守衛室や女子学生に「女子トイレの個室に隠れている男子学生がいる!」と触れ回ったら? それこそ現行犯である。だったら罪が軽くなる分、まだ自首した方が良い。
かと言って、女子学生に救出を頼むのは余計に難しい。 よく知らない男子学生から「女子トイレの個室にいるから来てくれ」と言われるのは、相当な恐怖だと思う。隠れて誰か来るのを待っていたが、襲う相手が誰も来なくて痺れを切らして連絡してきたと思われるかも知れない。大分と追い詰められたヤバい奴である。
そもそも、顔見知り程度の女子学生を女子トイレの個室に巧みに誘導できる話術があれば、入学のオリエンテーションの時点で彼女の一人や二人できてトイレに助けに来て貰えているだろう。あかん、涙が出てきた。
以上より友達に連絡する案も却下となった。
案4:人がいなくなる夜を待って脱出する
誰かに助けに来てもらうのは諦めたC君は、自力で脱出する策を考え始めた。
脱出するに際して最重要なのは誰にも見られないことである。トイレ内にせよ、トイレから廊下に出るところにせよ、誰にも見られてはいけない。
C君がいるトイレがある講義棟では、日中講義が行われている。講義時間中には廊下にそれほど人はいないと思うが、人気がなくなる夜まで待った方が安全に脱出できるのではないか?
C君がトイレに駆け込んだ1限後の休み時間であったから、夜になるまでは大分時間がある。手元には水も食料もないが、幸いにして今いるのはトイレの個室である。衛生面と倫理面にさせ目をつぶれば喉の渇きを満たすことはできる。
しかし、一体いつまで待てば良いかが分からない。この講義棟で何時まで授業があるか知らないし、あまりに遅くまで待つと守衛さんが戸締まりのために見回りに来るかも知れない。
そもそも1日中空かないトイレの個室があったら、誰かが不審に思ってもっと早く守衛さんを呼ぶかも知れない。女子トイレの個室にこもってトイレの水をすすって潜んでいる輩は現行犯どころではない。もはや物の怪の類である。その場で斬り伏せられて除霊されるだろう。大学構内を探せば、寺生まれで除霊できる者の一人や二人いるだろう。
夜まで待つ案も却下である。
案5:耳をすませてトイレや廊下に人がいない瞬間を見計らって脱出する
これしかない。もちろんリスクはある方法だが、誰かを呼んだり夜を待つことは困難であることはこれまでの思考から分かった。トイレ内にもトイレを出た廊下にも人がいないタイミングを見計らって脱出するしかない。
1番大事なのは脱出を試みる時間帯である。今は1限後の休み時間であり、トイレ・廊下に人が多いであろうから論外である。講義開始直後は遅刻して来る学生と廊下で鉢合わせる可能性があるため避けたい。逆に講義終了時刻付近は、早めに講義が終わる可能性を考えるとやはり避けたい。以上より、C君は脱出時刻を2限の講義時間帯のちょうど真ん中、講義開始から45分経過後と決めた。
それから彼は脱出時刻が来るまで物音を立てないよう細心の注意を払い待った。咳やくしゃみの音を聞かれようものなら人生が終わる可能性がある。普段は意識しない自分の呼吸音すらうるさく感じた。
待っている間は聴覚に全神経を集中させてトイレ内や廊下の音をひたすら聴いていた。脱出の際には誰もいないタイミングを見計らう必要があり、トイレ個室内でそれを判断するための唯一の手がかりは音しかない。トイレ内に人はいるか、どこの個室に入った音か、この水音は手を洗っている音か、廊下の話し声は何人のものか、講義のマイク音が聴こえるか、講義の内容は何か、廊下を歩く音は講義に遅れて来た学生かなど、鼓膜を振動させるあらゆる音を分析し、その音の発生源を推理し、その音が発生している像をできるだけ具体的にイメージすることを心掛けた。もちろん全てトイレから無事に脱出するためである。
極限状態に置かれた人間は自身の五感を飛躍的に向上させるという話は漫画などでよく描かれることである。C君も今回の一件で1キロメートル先の針が落ちる音が分かる超聴覚が自身に開花するのではと密かに期待していた。残念ながら、生まれたのは女子トイレの個室内でひたすら周囲の音を聞き様子をイメージしている悲しき怪物だけだった。
2限開始から45分が経過した。時は来た。緊張はしているが、不思議と冷静でもあった。今一度、周囲の音に耳を傾ける。トイレ内にも廊下にも人のいる音はしない。わずかに聴こえるのは、この階の講義室で話す教員の遠いマイク音と自身の心臓の鼓動音だけである。
意を決して個室の鍵を開けて、わずかに開けたドアからトイレ内の様子をうかがう。誰もいない、クリア。ここまでは大丈夫。個室から顔を出して廊下の方にも目をやるが、見える範囲には人はいない。今しかない。
素早くしかし音を立てないように個室を飛び出し、トイレ内を突っ切る。そして廊下に出た。誰もいなかった。講義のマイク音が少し大きく聞こえた。
そこから先のことはよく覚えていないが、おそらく一目散に階段を駆け下り、講義棟から逃げ出したのだろう。娑婆の空気はうまいという言葉の意味を実感できたことは、何となく覚えている。
我々がこの話から得た教訓は2つ。どんなに切羽詰まっていてもトイレの標示は確認しなくてはいけないということ、そして間違って女子トイレに入ってしまった時に連絡できる友人を持てということである。
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